とにかく孤高の位置にまで上り詰めた横山やすし師匠、西川きよし師匠の“やすきよ漫才”。
とにかく“天才漫才師”のような語られ方をすることも多いのですが…実は数え切れない程の苦労、葛藤、闘いがあったそうです。
やすし師匠は非常に研究熱心で、喫茶店で他人の会話をノートに書き留めネタ作りの参考にしたり、先輩方の漫才を分析したりと、一流の漫才師になるための努力を惜しまなかったそうです。
人はとかく有能な人を“天才”の一言で片づけがちですが…その実、地道な努力を重ねていることが殆どです。
一方のきよし師匠も…とにかく稽古を重ねるタイプ。
数回台本に目を通すだけで直ぐに自分のものに出来るやすし師匠から見ると、きよし師匠は“動きや喋りが芝居風に見える”と感じていたそうで、コンビ結成当初から喧嘩の絶えない日々が続いたそうです。
そんな“やすきよ”漫才に大きな転機となる出来事が起こりました。
それは名古屋にある大須演芸場での寄席の生中継、コント55号と共演した時でした。
舞台上を右に左にと縦横無尽に動き回るコント55号。
会場はドカ受けだったそうですが、一方で…テレビのOAはカメラがその動きに付いていけず、その魅力を追い切れていなかったそうです。
そのOAの様子を観たやすし師匠が思いついた秘策、それは…“舞台のセンターで動かない漫才”。
それがその後の“やすきよ”漫才を作り上げるベースとなったそうです。
この辺りの才覚は…やはり天才という他ないと思います。
そしてその後破竹の快進撃を続けたお二人…と言いたいところですが、人生そうは上手く行きません。
その快進撃を阻んだのが…他ならぬ横山やすし師匠。
その漫才の活躍の一方で、横山やすし師匠は度重ねるプライベートでのトラブルにより、その活動を自ら阻むことになってしまうのです。
2024年3月23日