私、木曽さんちゅうがお笑い芸人を志し、地元神戸から東京に出て来たのは…1994年のことでした。
当時は今のように…殆どの芸人志望の人が進む“養成所”がまだそこまで既定路線ではありませんでした。
吉本興業さん(NSC)とプロダクション人力舎さん(JCA)くらいで、当時は各プロダクションが月に一度開催するお笑いライブの出演者を決めるオーディション(芸人の場合、ネタ見せと呼ぶ)があり、そこでライブ出演者として選ばれた時点でまず一歩リード。
そのライブで活躍(ネタで笑いを取る)を重ねて行くと、そのうちライブを主催するプロダクションからオーディションだったり、小さな仕事なんかを貰えるようになる。
この時点でようやくそのプロダクションの“預かり”と呼ばれる立場になります。
“預かり”というのは…そのプロダクションの所属になった訳ではないのですが、そのプロダクションから振られたオーディションなどに出向いた際には“所属”みたいなスタンスになります。
言い換えれば“仮所属”というか“研究生”というか…そしてそのプロダクションからの仕事が増え、先方も自然にそのプロダクションの芸人、みたいな感じになると、何となく気付いたら所属みたいになってた、こんなパターンが多かったんじゃないかな、と思います。
まっ、所属に至る経緯は色々あると思うのですが、こと個人的な話で言うなら…実は私、ここまでの芸人人生の中で、しっかりとした契約書を交わしたことが殆どないのです。
信じられないと思いますが、当時は殆どのお笑い芸人が結構そんな感じだったんじゃないかと思います。
ちなみに今は先般の“闇営業問題”などもあって、その辺りはかなり整備されて来てるんじゃないかと思います。
とにかく実力。
勝つか負けるかですからね、私が年齢的に若手と言ってよい頃は…本当に何処かギスギスした感じがありました。
今はもうないのですが、渋谷に“シアターD”という、お笑い専門の劇場がありました。
その“シアターD”には“シアターDスペシャルオールスター”という看板ライブがありました。
2023年07月03日