例え完調ではなかったしても、その後復調すれば良いと思う。
しかしながら…こいる師匠は明らかに入院する前よりも体調が芳しくないことは誰が見ても明らかな程でした。
浅草東洋館の直ぐ近くには“水口食堂”という、青空球児師匠、こぼん師匠などの諸先輩方が行きつけにされてるお店がありました。
歩いても1分掛かるか掛からないか、といったレベルです、しかしながらその時のこいる師匠は抗がん剤の影響だったからか、足が痛むとのことで普通に歩くことが出来ませんでした。
「木曽くん、球児さんとこぼんさんが待ってるから、先に行っといて」
たった1分の距離が、である。
勿論体調には波がありましたし、3回目(…そしてこれがこいる師匠が出演する最期の)『ザイマン演芸会』は比較的体調も良さそうでしたし、そんなこいる師匠と私の漫才の映像を残すことが出来て本当に良かったと思う。
観てくれたパックンマックンの吉田さん(マックン)からは「木曽さんが困らされてる感じ、笑いました!」って感想を頂きました!
それはすなわち言い換えると…観ててこいる師匠の体調が気にならなかったことに他なりません。
加えて…2018年には、これは私事なんですが、私の父が2月に胃がんで亡くなったのです。
がんの末期になると、みるみる父の体力が無くなっているのが分かりました。
仕事先で倒れ、搬送された病院の先生から私が父が居ないところで1人、聞かされたのが…病名が“胃がん”であること、そして余命は半年でした。
その余命宣告を良い意味で裏切ってくれた父と私、そして私の家族とのひと時はかけがえのない、とても濃密で大切な時間でした。
それまで仕事の忙しさにかまけて私の4人の息子たち(父から見ると孫)との関わりの時間も出来る限り作るようにしましたし、私と2人だとついつい弱音を吐くようになった父が見栄を張って頑張ろうとしている姿は、何処か“余命なんて仮定で、いとも簡単に吹き飛ばしてくれるんじゃないか”と思わせてくれる程でした。
父は不器用な仕事一筋人間で、会えば自分の仕事の話、そして私に対しても「いくら俺の体調が悪くても絶対に仕事を最優先にせーよ」と言っていました。
そんな父が仕事先に迷惑を掛けてしまうこともあり退職(もっとも定年のあとも延長して雇用して貰っていたのですが)。
人生の支えであり、張りであった“仕事”を失ったことは、父にとって大きな喪失だったと思うのです。
さすがにお世話になっていた会社に無理を言える状況ではありませんでしたし、むしっろガンであることが分かったあともしばらく働かせて貰っていたので…そこはもう、感謝しかありません。
そこで…こいる師匠です。
2023年08月22日