れらpです。
ついに日大アメフト部前監督・内田正人氏が大学の常務理事の職を辞しましたね…
あれほど表に出ることを嫌い、若い選手に罪を被せ、逃げ切りを図ろうとしていたのは、すべてこの「常務理事」すなわち巨大組織・日大の事実上のナンバー2という地位を守らんがため、と囁かれてきましたので、この辞任劇は極めて象徴的な出来事だったと思います。
今回の一連の騒動のある意味「決着点」というか、世論的にも本事案における責任論が「一区切り」ついた、という印象を与えることになるでしょう。
あとは前監督やコーチに対する警察の捜査状況やら、結局田中理事長はどうなってんだ、という話がポツポツ出てくるくらいで、この辺で徐々に世論の風は収束に向かうものと思われます。正直、さすがに1ヶ月近く経って世の中がこの問題に「飽きてきた」という空気もありそうです。
まぁもっとも、今回の件で浮き彫りになった「スポーツ界の闇」やら「部活動におけるパワハラ問題」など社会性のある論点は、引き続き数多の言論人やブロガーによって論じられていくことでしょうが、いずれにせよこの件はここらで一旦"中締め"、というか「ひと山越えた」感があります。
今日のエントリーは、このことを引き合いに出しながら、やがて来るであろう恐るべき近未来を探ってみたいと思います。
少し専門的でマニアック(かつSFチック?)なメディア論になるかもしれませんので、途中で退屈になったら自由に離脱してください笑
■完全に時代劇のプロットをなぞった今回の顛末
さて、今回の件では実に多くの意見や感想がネット上を駆け巡りました。かくいう僕も、今回の騒動を本ブログで取り上げた一人です。
そもそも事が発覚したのは、ネット上に上げられた1本の動画によるもの。
これが一部SNS界隈で騒ぎになり始めたことから、それをレガシーメディアとしては初めてNHKの『ニュースウオッチ9』がトップニュースで報じ(YouTubeに動画が投稿されてから3日後のこと)、そこから途端に全国区になってバズった(というと不謹慎かもしれませんが…)というのが今回の情報拡散の流れです。
なぜ第一報がNHKだったか?というと、これはもしかしたら、ナショナルスポンサー並みにいろんなところに広告やCM出稿をしている「大スポンサー」である日大様への「忖度」が当初各メディアに働いたから、かもしれません。
「知ってはいたけど他社の扱いを様子見してた」といったところでしょうか。
CMや広告のしがらみのないNHKの一報後は、みなさんご存知の通り各社全力を挙げて日大を追い込んでいったわけですが、残念ながら最初の空気なんてそんなものです。
さておき。
今回の件は実に「劇場型」でした。
すなわち
①何の落ち度もない被害者(関学のQB)と、それを糾弾するどうみてもマトモで理性的な一派(関学関係者)=世間に共感されやすい
②最初悪者と思われてた人物(日大の加害選手)が実は可哀相な境遇に置かれていた真面目な青年で、今回やむにやまれず悪事に手を染めていたことが後で判明=世間に共感されやすい
③その悪事の黒幕(日大元監督)は絶対権力者でしかも多くの取り巻きに守られているうえに1ミリも自分が悪いと思っていない態度に終始した
④その黒幕には腰巾着みたいな血も涙もないうるさ型の若頭みたいなの(元コーチ)がいて、不幸な青年を苛めたあげくに追い詰めていた
⑤さらに「何が悪い」と開き直って世間をあざ笑う、超上から目線の黒幕親衛隊(記者会見で下手を打った日大広報)も存在
⑥下手したらこの黒幕をさらに陰で操る闇のラスボス(日大理事長)が見え隠れしている
このプロット、どう考えても「水戸黄門」的というか「暴れん坊将軍」的というか…笑
あからさまな時代劇的勧善懲悪ストーリーの要素を、最初っからバッチリ兼ね備えていた気がするのです。
日本人、こういう話って遺伝子レベルで好きだから笑
冒頭「これでひと山越えた」と言ったのは、とりあえず今回で"悪代官"が成敗されて一件落着。でもまだまだ悪ははびこってるぞ、来週も見てね、的なタイミングだと思ったからですね。
多くの日本人は一旦この"時代劇"を見るのを止めて、別の用事をこなすか、チャンネルを変えるところでしょう。
■日本の歴史における「第4の権力」の誕生を振り返る
さて、日本では憲法にも規定されている3つの公権力が存在します。
もうお分かりですね…「立法」「司法」「行政」の三権です。
この三つの「権力」はそれぞれ独立して分離しており、特定のポジションに過剰な権力集中が起こらないよう民主主義制度上のセーフティネットとしての機能を果たしているほか、お互いを監視し合うというプロトコルも有しています。これを称して「三権分立」という。
ここまでは義務教育でもキチンと学びますね。
さらに、戦後の「日本国憲法」が施行されるにおよび、ここに4つ目の「権力」が生まれました。
その"権力"の根拠とされたのが、日本国憲法第21条に規定された「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」という一文です。
ところでこの条文、もともとのGHQ草案の英語原文とは少しニュアンスが違っています。
原文はもともと
“Freedom of assembly, speech and press and all other forms of expression are guaranteed.(以下略)”
とあって、 日本語の「出版」という部分は本来は「報道(press)」と訳さなければいけなかったのですが、なぜか「出版」(本来の英語は publish )という表現をされてしまった。
当時(昭和21-22年)まだ「報道」という概念が一般化していなかったためなのか?
当時報道といえば一般的に「新聞」のことだったから、新聞(や雑誌)の「出版」という言い方にしてしまったのか?
この一文字のせいでなんとなく分かりづらいですが、要はこの条文、マスコミ(報道)は自由に権力を批判してよい、というお墨付きを与えるものだ、と理解してください。
すなわち第4の権力とは、日本国憲法発布と同時にその"自由な活動"をオーソライズされた「マスコミ」のことです。
■もともと新聞社に政治的公平性は存在しない
日本国における"権力"とは?
先ほども述べた通り「立法」「司法」「行政」の三権です。
マスコミはこれに対し自由に批判できることを憲法で保障されている。
だから新聞やテレビは「時の権力を監視する役割を与えられている」とすべてのジャーナリストは考えている。
魚が泳ぐのと同じように、鳥が飛ぶのと同じように、マスコミは権力を監視し、追及するものだ。
だから、立法府(=国会・国会議員を頂点とするあらゆる議会・議員活動)や行政(政府・役所・行政職員・警察などもここに含まれる)の不正を暴いたり、政策を批判するのは彼らのレーゾンデートルであり、生まれ持った気質だ。
ただし、大きな拡声器をもって誰かを批判するために、ジャーナリストにも「建前」が求められています。
それは「公平であること」と「異なる意見を多様に伝える」こと。
ところで、これが法律に明記されているのは、テレビ局をガバナンスする「放送法」のみです。
【放送法第4条】放送事業者(=テレビ局のこと ※筆者注)は、国内放送…(中略)…にあたっては次の各号の定めによらなければならない。
一 (省略)
二 政治的に公平であること
三 報道は事実をまげないですること
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること
意外かもしれませんが、新聞や週刊誌には、そもそもその報道姿勢を規定する法律はありません。
戦前には「新聞紙法」や「出版法」という、情報統制・検閲を目的とした法律が大日本帝国憲法下において存在しましたが、これらはいずれも戦後まもなく廃止されています。
ではなぜテレビだけか?というと、テレビ放送は、有限の公共資源である「電波」を預かって事業を営む仕組みだからです。国民の共有財産を拝借している以上、あまねく全国民が許容できるよう「公平性」を担保しなければならない。
いっぽう、新聞や雑誌などの「紙媒体」は、もともと「紙」を使って事業を営みますから、これは公共資源ではない。極論すれば、単なる民間の営利事業です。
一般の方は意外に気付いていませんが、だから新聞や雑誌には、現在の日本国憲法下においてそもそも「公平性」や「政治的中立性」を求められていない。自分の主義主張を自由に声高に叫んでもいい存在なのです。
だから、創価学会(公明党)の主義を主張する「聖教新聞」や、共産党の主義を主張する「赤旗」が合法的に存在している。
さらに、産経新聞のような「右寄り」と呼ばれる媒体や、朝日新聞のような「左寄り」、もっと極左的な東京新聞のような媒体も存在する。
ではなぜここ十数年、マスコミは「マスゴミ」と一般から揶揄されるようになったか。
■レガシーメディアの失墜を象徴する「マスゴミ」という表現
事の発端はテレビ朝日が始めた「ニュースステーション」です。
このニュースショーは、日本で初めてテレビが政治的見解を明確に主張し始めたものとして記憶されます。具体的には久米宏氏のニュース直後の一言コメントが極めて不快な政治的印象操作だと社会問題になった。
その主義・主張は、テレビ朝日の筆頭株主であった「朝日新聞」の意向を強く反映していました。
朝日はご存知の通り左翼寄りの新聞です。東西冷戦の時代も、日本国が属する西側自由主義陣営というよりは、共産主義・社会主義を標榜する東側ソ連・東欧・中国共産党寄りのイデオロギーを強く主張していた新聞です。
(もっとも朝日は戦前、最も好戦的な新聞として鬼畜米英を煽ったことでも有名である)
そんな朝日の「息がかかった」テレビ朝日は、放送法の公平・中立規定があるにも関わらず、極めて"新聞社的な"一方の主張に寄り添ったマスコミ報道を繰り返した。
その後続々と各テレビ局が同様のニュースショーを立ち上げる中で、いつのまにかテレビは一定の主義主張を訴えるのが当たり前になってしまったのです。
★ニュースショーの勃興・変遷に興味のある方はこちらのエントリーをどうぞ★
特に左翼的だったのが、このテレビ朝日と、朝日新聞社上がりのジャーナリスト・筑紫哲也氏をアンカーに据えた「NEWS23」を立ち上げたTBS。
日本の民放は、基本的にすべて新聞社が母体です。
日本テレビは読売新聞、フジテレビは産経新聞、テレビ朝日は朝日新聞。
テレビ東京が「ワールドビジネスサテライト」という、経済ニュースをメインとした看板ニュース番組を立ち上げたのは、その資本が日本経済新聞社だったからです。
(TBSだけ、もともと複数の新聞社が共同出資して出来たテレビ局なので、明確なスタンスはありませんが、毎日新聞の影響が強い、と言われています)
そんな中、突然押し寄せてきたネット社会。
玉石混交のさまざまなニュースがネットに流れてくる中で、次第にテレビや新聞の「嘘」が一般人から指摘されるようになった。
どんどん進化するネット環境の中で、さまざまな客観的検証が「集合知」として行われるようになった。
その結果として、それまで盲目的に「権威」として大多数の国民から信頼を得ていたマスコミが、実は無謬性(むびゅうせい)からは程遠い、不完全な存在だということがバレてしまった。
さらに追い打ちを掛けたのが、冷戦終結後、突如として始まった韓国・中国の反日キャンペーン。
これらの反日国はいずれも政情が不安定で、冷戦が終わって新たに国民共通の「敵」を作る必要性から、意図的にこうしたネガキャン外交を日本に仕掛けてきたわけですが、その大きな拠りどころを作ったのが、朝日新聞のいわゆる「従軍慰安婦問題」(→後に誤報だったとして朝日は正式にこの記事を取り下げたが後の祭りである)であったり、このような近隣諸国の「言いがかり」ともいえる反日扇動に国民感情が悪化していく中、空気を読まずに韓国礼賛キャンペーンを繰り広げたフジテレビだったりしたわけです(テレビ局への大規模デモはおそらくフジが初めてなんじゃないだろうか)。
もちろん、冷戦構造下において世界的なイデオロギー対立が激化するなかで、ソ連からの資金援助を受けて当時暴力革命を党是としていた日本共産党(現在は暴力革命を否定しているが)や社会党が中心となって煽っていた戦後自虐史観と、それを前提とした左翼教育を全国の学校で進めていた日教組などがもたらした、大多数の国民の積年のフラストレーションが、暴かれたマスコミの嘘と化学反応を起こして今に至る"行き過ぎた"ナショナリストの誕生までをも促してしまったわけですが(これについては次のエントリーで詳しく実例を挙げる予定です)。
1993年には「椿事件」などという前代未聞の偏向報道事件もありました。当時テレビ朝日(←またテレビ朝日だ)の報道局長だった椿貞良氏が、民放連の会合で「自民党政権をなんとしても倒し、非自民政権を成立させるべく報道を行うべし」と発言し、その確信犯的偏向報道姿勢が大問題となって、後に国会での証人喚問にまで発展した事件です。
この結果、テレビ朝日はもう少しで放送法違反でテレビ放送免許を剥奪されるところだったし、これをきっかけにして、以降政府が放送に介入しやすい土壌を作ってしまった。
辛うじて、放送局が権力の介入を防ぐために自らの自浄能力を示そうとして設立したのが、かの有名なBPO(放送倫理・番組向上機構)です。みなさんBPOの設立経緯ってこんな話だったの、ご存知でしたか?
第4の権力として驕りたかぶっていたマスコミが、自らの首を絞めてしまった痛恨の出来事でした。
いずれにしても、ベルリンの壁が崩壊してまもなく本格的なネット社会の到来を迎えてしまい、過去数十年の価値観とは異なる多くの「隠された真実」が無名の人々によってどんどん暴かれていく、いわばパラダイムシフトの時代にあって、一部テレビ局は放送法の規定を無視して声高に主義主張を繰り出すようになり、いっぽうで新聞はネットに押されて急坂を転げ落ちるようにその発行部数を減らして新聞広告の売り上げを減らしていく中で、大スポンサーである広告主に配慮して数々の大企業の不正を見て見ぬふりをするという態度に終始した結果、どの立場を取る人々からも賛同を得られなくなってきた、というか見捨てられ始めた。
事実、国民のテレビ接触時間は年を追うごとにどんどん減っていったし、新聞はその発行部数を大きく減らした。
そんなナイーブな国民感情の中、マスコミはいつしか右からも左からも「マスゴミ」と呼ばれるようになってしまったのです。
これが、かつて「第4の権力」と自他ともに認めていた、レガシーメディアの「権威の失墜」の経緯です。
■ネットの進化はそれ自体に無意識集合体としての権力を持たせてしまった
さて、ネット社会が特に攻撃性を帯びてきたのは、間違いなく「ツイッター」が日本に入ってきてからでしょう。
(ツイッターの日本サービス開始は2008年。今年で10年目を迎えます)
それまでのネット社会は「2ちゃんねる」に代表される匿名掲示板や、せいぜい個人ブログによる情報発信のみでした。ミクシィなどのSNSは、どちらかというと会員制の閉じられた空間での遣り取り。そこに社会に広く影響を与えるほどの拡がりはない。
当時2ちゃんは「ドブ板」「便所の落書き」と呼ばれ、一般社会ではロクに相手にされなかったし、寧ろ蔑みの対象だった。
個人ブログも、「ブログ」ですから、多くの読者を獲得するにはある程度文章力が必要だったし、もちろん影響力の強いブロガーもいましたが、一般人が気軽に参加して自由に情報発信するような媒体ではなかった。個人の絵日記みたいな内容のものは、所詮毒にも薬にもならない程度のものだったわけです。
ところがツイッターは、「リツイート」という、きわめてシンプルな機能が恐るべき影響力を発揮します。
日常の些細な「つぶやき」も含めて、これらのツールを使ったさまざまな主義主張の展開は、このリツイート機能を通じて、恐るべきスピードと集団性をもって社会に拡散されるようになったのです。
ヒトは、自分に「武器」が備わると、必ずそれを使わなければ気が済まないようにプログラムされている生きものです。
その意味でツイッターは間違いなく「個人装備の武器」と呼べるツールだ。
そうなると当然、他者への攻撃が加速度的にスケールメリットを伴って行使される。
「ブログ」は、書く人を選びます。人に影響を与えるためには、ある程度「知性」(文章力だったり、分析力、洞察力など)が必要だ。
そういう意味では、ブログによる攻撃はいわば「大砲」。大砲の発射には知識もスキルも手間も暇もかかる。
これに対しツイッターによる攻撃は、引き金さえ引けば誰でも撃てる「ハンドガン」のようなものと言えるでしょう。思ったことを、わずか140文字以内で脊髄反射的にさささーっと書き込んで終わり。その手軽さはブログの比ではない。
すなわち、人々はツイッターというシンプルな武器(ハンドガン)を手に入れることによって、本当に手軽に、思いついたその瞬間に他人を攻撃できるようになってしまった。
その攻撃力は、時に効果的に相手を攻める/責めることが出来ますが、同時に「加虐性」「無差別性」も孕んでしまう。だからツイッターではしばしば「炎上」が起こる。特定の個人に対し、数千、数万の直接攻撃が延々と繰り広げられる。攻撃する方は1回かもしれないが、多数がスクラムを組んで攻めてくると、受ける方にとっては圧倒的な数の暴力となる。こうした波状攻撃は、単なる「メッセージの送信」というレベルを超えて、精神攻撃の域に達する。それは事実上の物理攻撃と何ら変わりません。これではいわゆる「オーバーキル」だ。
個人の自宅に、数万人のデモ隊が押し寄せてるようなものです。
さらにそのデモ隊の多くは仮面を付け、自らの素性は隠したままでありとあらゆる悪意(あるいは義憤)を遠慮会釈なくぶつけてくる。
実生活では比較的穏健な人も、「匿名」となった途端にその本性を剥き出しにして襲い掛かってくる。
今や人類は、史上かつてないほどの攻撃力を伴った「言論」を手に入れたと言えるでしょう(ただしその「攻撃力」は、匿名性に守られた偽りのチート性によるものですが)。
かくして今や「世論」はマスコミが作るのではない。
こうしたツイッターに代表される、SNSでの「空気の塊」がすなわち現代の「世論」なのです。
それは、個人個人を特定しない、匿名性をもった集合体。
無意識の集合体としての一大勢力。
これを「第5の権力」と呼ばずしてなんと呼ぶ?
■ポリコレは「魔女狩り」に通じていることを冷静に理解しておく必要がある
しかも、その権力を構成する個々のユーザーには「免許取得」も「講習」も義務付けられていないのです。
マスコミ人が、入社して必ず勉強し身に付ける「メディアリテラシー」や「報道倫理」あるいは企業人としての「社会性」や「ガバナンス」などはそこに一切存在しない、恐るべき無法地帯。
この第5の権力は、責任主体はどこにも存在せず、いったん暴走を始めると、その構成メンバー(すなわち、あなただったり、僕だったり)ですら自らを制御することができなくなってしまう、恐るべき無意識集合体なのです。
レガシーメディアたるテレビや新聞をはじめ、多くの企業は、今やこの第5の権力の動向を見て自分たちの立ち位置を決めないと、社会的に抹殺されかねない恐れすらあります。
最近は少しでも引っかかる要素のあるCMや企業活動が、「炎上」と呼ばれるある種のネットデモによって粉砕される事例が多く見られます。
その思想の原点となっているのは、最近になって人口に膾炙した「ポリティカル・コレクトネス」という概念。
もともとは「言葉の用法の中に偏見や差別の要素をなくしましょう」という運動から始まっていて、それは確か1980年代のアメリカから始まった運動だったと思いますが、代表的なのは「看護婦」を「看護師」と言い換える(「婦」は女性のみを表す言葉)とか、「障害者」を「障がい者」あるいは「障碍者」と書きましょう(「害」という漢字が不快だと考える当事者もいる)とか、そんなレベルのもので、一部「言葉狩りだ」と憤慨する向きもありましたが、言語なんて時代によって変わりゆくものだから、僕自身はこれ自体どうとは思っていなかった。
ところが最近の「ポリコレ」は、ここに倫理上あるいは道徳的な要素を色濃く反映するようになってきました。
もちろん「セクハラ」や「パワハラ」などのいわゆるハラスメント行為を助長ないし黙認するようなコンテンツが大手を振って世間に流通するのは良くないと思いますが、中には「それって微妙だよね」と思われるポリコレ攻撃も多数含まれていて、もうこうなったら何でも「正義」の名のもとに攻撃できちゃうじゃん、という事例も目立つようになってきたのです。
言葉を変えればこれはまさしく「魔女狩り」だ。
たとえば、一時期日本中で流行ったいわゆる「萌え絵」を使ったご当地キャラによる町おこしも、三重県志摩市で当初行政の公認キャラとして作成された"萌え海女キャラ"である「碧志摩メグ」ちゃんのビジュアルが、胸などを必要以上に強調した"エロキャラ"で、これは現地の本当の海女さんを馬鹿にしている、セクハラだ!といって大炎上した一件以来、"行政が主導するキャンペーン手法としては"ストンと下火になりました。
これだって、そもそも萌え絵というのはこういう描き方が普通なのであって、もともとその界隈では「そこ」は問題ではなく、したがって誰も「そこ」を性的に見ていたわけではないと思うのですが、普段そういうカルチャーに接していない方々から見たら恐ろしく刺激的に見え、激昂した、ということなのでしょう。
つまりこれは「価値観の衝突」なのです。
しかしこれを大真面目に議会やら観光協会の会議などの俎上に乗せたら、そりゃあクレーム付けた方が勝ちますよね。税金でこんなものを宣伝するのかー!?って一部住民から怒鳴り込まれたら、普通の行政マンは「おっしゃる通りです」って引き下がるしかない(あ、この「行政マン」という表記はポリコレ的に言うと「行政パーソン」と言い換えなきゃですね!)。
でも国家レベルでは、同じく税金を使ってアニメやゲーム、漫画など、この碧志摩メグちゃんとさして変わらないキャラをパリのジャパンエキスポとか世界中で大々的に日本国政府これ宣伝しまくってたりします。
なにがよくて何がダメ、という基準は、最近のポリコレには存在しません。
その時ガーっと文句言う人たち(=声の大きな人たち)の怒りゲージの高さによって、黙認されるか抹殺されるかが決まっていく。
その点、ネガキャンされたら商売立ちゆかない一般の小売業なんかは、なんかケチ付けられたらとっとと撤退するのが利口だ、ということになる。
こうやって、さまざまな創造的表現が委縮して、最近のクリエイティブはどんどんつまらなくなっている、というのも現実です。
この構図はまさにファシズムだ。大衆の熱気によってその時その時の「善悪」「アウトかセーフか」が決められてしまう。
話を冒頭に戻すと、今回の日大・内田氏の常務理事辞任は、こうした"大衆の熱気"に抗しきれずについに落城した感すらあります(もともと世間を甘く見ていた、という日大の驕りも大いにあるとは思いますが)。
■間違いなくやってくる情報統制社会(ディストピア)
第4の権力だったマスコミは、かつて立場の弱い市井の人々の代弁者であり、多くの人々に代わって「今世の中で何が起きているのか」を伝える媒体の役目を果たしていた。
ところが今は、その"市井の人々"自体が「5番目の権力」を持ってしまったし、今やテレビや新聞を見なくても多くの情報を自力で入手できる。
だから今は、マスコミは大衆迎合を図り、首をすくめているしかない。
誰だって「魔女狩り」には遭いたくないからです。
ところが、本来の国家権力(立法、司法、行政)は、マスコミのようにそう易々とその座を譲ることはありません。
「国家」とは、それほど強大なのです。
だから、その安定を脅かす存在はいずれ必ず、どんな手段を使ってでも制御下に置こうとするでしょう。
ある程度独裁体制にある国家は既にそれを行っています。
その代表格が「共産党独裁」を国是とする中国です。
中国では、中国版ツイッターである「微博(ウェイボー)」というSNSがありますが、この微博にはさまざまなNGワードが設定されていることで有名だ。
たとえば「天安門事件」などと微博で打ったら、即座に遮断されるし、すぐに公安警察がやってくるでしょう。
1989: Man vs. Chinese tank Tiananmen square
もちろん、中国国内からは、外国の特定のサイト(中国共産党には不都合な真実が掲載されているサイト)には絶対にアクセスできないようになっているし、国家に都合の悪いニュースは完全に遮断される。
NHKの国際ニュースがしばしば中国国内でブラックアウトになるのも有名な話だ。
だから中国国内での反日デモは「官製」と呼ばれている。制御された情報に基づいて一方的な義憤を燃え上がらせた中国青年たち(これを「憤青」と呼称するそうです)が、中国政府という大きな掌の上で踊らされている様は、滑稽というより、言い知れぬ恐怖を感じます。
「漫画村」という悪質サイトをブロッキングする、という件で大騒ぎになっている日本では考えられないほど、中国では「言論の自由」の価値は極めて低い。
ただ、こうした言論・情報統制はやがて崩壊する、と言われています。
やり方があまりにも露骨だからです。中国人だってバカじゃない。
1,700万人あまりが虐殺されたとされる文化大革命で多くの、実に多くの中国の知識人が虐殺され、そのせいで中国は国家の進歩が百年遅れている、と言われていますが、そろそろ彼らに代わる新たな知識人が生まれ育っている頃合いだ。
だから、日本やアメリカなどの自由主義陣営では、こうした中国のようなあからさまな言論統制ではなく、もっと巧みに国民に対し情報統制を仕掛けてくるでしょう。
たとえばそれは「テロとの戦いのため」とか「私たちの財産を守るため」という"公共の福祉"名目で始まるはずだ。
おそらく、最初はデバイスの「生体認証」というかたちで世の中に普及する。
既にiPhoneでは指紋認証や、最新型の「X」ではフェイス認証が当たり前になっているし、銀行でも網膜認証などが徐々にスタンダード化しつつある。
そしてもちろん、iTunesでの買い物も、このフェイス認証で行えるわけですから、最初は「決済関係」でこれら個人特定が一般化する。
そのうえで、認証を送ったデバイスをハブとする情報の遣り取りは、すべて個人と紐づけられていくのです。
僕たちが日々発信するツイッターやブログに、何を書いているか、すべて情報として蓄積される。
航空機や新幹線に乗車する際も、セキュリティ名目でそのうち生体認証が一般化するでしょう。こうして僕らの行動はすべてログとして残るようになる。
そうなれば、当然僕という人間の政治的傾向や生活志向、財産、行動パターン、交友関係などあらゆる情報がプロファイル化され、データベースとして国家が情報管理できるようになる。
あるいは現在、知らないところで既にそうなっている分野があるのかもしれない。
いずれにせよ、国家権力はネットの「匿名性」をいつまでも許さないでしょう。
「個人を特定すること」が、「支配の大原則」なのです。
すべての人間が身体にマイクロチップを埋め込み、あらゆる認証や決済がそれを読み取ることで完了する、現金という概念が消失した世界観の中で、絶望的な闘争を繰り広げる物語を「虐殺器官」という作品の中で描いたのは伊藤計劃という作家ですが、彼の描いたディストピアは、妄想でもなんでもなく、極めて実現性の高い「すぐそこにある未来」のような気がします。
高度に情報化され、不特定多数の人々がアノニマス(誰でもない匿名者)としてある種の"権力"を持つに至った現代。
そしてそんな僕らを支配するために、個人を特定し、高度にデータベース化しようとする近未来の国家。
国家は、個人を特定することが可能になったら、今度はそれら各個人を「格付け」していくことになるでしょう。
統治上「安全」な人物か?「厄介な」人物か?
国家への「貢献度」すなわち納税額による等級付けや、高度なスキルを持った人材か、否か?などによる個人評価。
さらにその先には、これら集団としての個々人、属性化された私たちを、その特性に応じて最も効果的なやり方で管理し扇動するようなシステムが構築されるかもしれない、という恐るべき未来が垣間見えていたりするのです。
こうした流れはもはや歴史の必然として、想定の範囲内に入れておくしかないのかもしれません。
少し、話が長くなりました。
次回のエントリーは、少しテイストを変えてこの話の続きを書きたいと思います。